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マルヤナギ創業の歴史①

マルヤナギの歴史1

大阪で生まれた昆布商「小倉屋」

時は文久9年(1826年)11月11日、淡路島三原郡に生まれた松原久右衛門は、びん付油商小倉屋彦兵衛方に奉公後、無事勤め上げて、彦兵衛の信頼も得て「小倉屋」ののれん分けの許しをいただきました。ただ、商標の使用は認められたものの主人と同じ商品を取り扱うことは許されなかったのです。そこで、久右衛門が選んだのが昆布商でした。
久右衛門は、昆布に己の運命をかけて、大阪の西区新町に昆布商ののれんを掲げました。これが、小倉屋昆布の発祥であり、久右衛門の「久」が小倉屋の商標である「山久」の由来となりました。嘉永元年(1848年)、久右衛門22歳でした。
なぜ久右衛門が昆布商を選んだのかは定かでありません。しかし一説には、久右衛門と同じ淡路島出身の大先輩である豪商高田屋嘉兵衛が蝦夷地の特産物を大々的に取り扱ったことに着目して、その中の昆布に目をつけたのではないかと言われています。

商号「小倉屋」の由来

小倉屋を商号とする商店は、江戸の時代から大阪にありました。この小倉屋の「小倉」は、百人一首にも入っている平安時代、藤原忠平の歌「小倉山 峰の紅葉葉心あらば いまひとたびのみゆき待たなむ」に由来します。 京都の嵐山にある小倉山の美しい紅葉よ、醍醐天皇の行幸があるまで、心あるなら散らずに待っていてくれないか、という意味の歌で、戦前から小倉屋昆布の包装紙などには紅葉葉がデザインされていたそうです。

小倉屋昆布の隆盛とのれん分け

久右衛門は、時代の動きを敏感にキャッチしながら、天性の商才と努力によって短期間で店の地盤を築いていきました。明治17年(1882年)には、養子の松原久七が2代目を継承。この頃には昆布はすでに「岩おこし」と共に大阪名物の一つとなっていたようです。
さらに、明治22年(1887年)、久七の死去にともない息子の松原新次郎が2代目久七を襲名、小倉屋総本家の3代目当主となりました。その後、総本家の隆盛と共に、歴代の小倉屋に奉公してのれん分けを認められた者たちが少しずつ増えていきました。
別家したものは主家の伝統を受け継ぎ、「のれん」に恥じない商いをすることが主家への恩返しでした。そんなのれん分けを許された一人に、マルヤナギの創業者である柳本一夫がお世話になり、後にのれん分けをしていただくことになる小倉屋居内の創業者、居内万蔵がいました。

をぐら昆布系友会

小倉屋総本家を出発として、のれん分けを許された別家は、明治36年「小倉屋会」を結成、大正12年には「をぐら昆布系友会」と改称し、小倉屋昆布創業者をはじめとする諸先輩の功績に敬意を払い感謝の念を持ちつつ、小倉屋の信用と名声に恥じない高品質の商品の提供を続け、今日に至っています。

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